アメリカンビンテージ 時代は黄金期


中流アメリカ人の豊かさの影では・・

1950年代は見事にアメリカが繁栄した時代です。これには第二次世界大戦に勝利したという戦勝国としての地位。第二次世界大戦ではヨーロッパは戦火を浴びていますがアメリカ本土にはほとんど被害を受けていないとう点も大きく影響しています。戦勝国に沸きかえり、アメリカが黄金期ともいえる時期ともいえる時代でした。ただし、この時代に恩恵を受けたのは白人です。運転免許証には人種という項目があり、日本人にはYが記入されていてアメリカ南部の黒人はバスや公衆トイレでも白人専用としっかりと区別されていました。

アイゼンハワー政権

この時代は戦勝国としてわいた時代ですが、冷戦の時代でもあり豊かな白人と明確に分けられていたアフリカ系黒人が人種差別を求めて、公民権を求めた公民権運動の時代でもあります。

トルーマン大統領の次に大統領になったのは第34代アメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーです。1953年1月20日に大統領に就任したアイゼンハワーですが、、大統領職にある間を通じて人気を保持した大統領です。

アイゼンハワー大統領の時代は、まさに冷戦の最盛期ともいえる時代で、ソ連を筆頭とする東側諸国とアメリカ合衆国を代表とする資本主義陣営との冷戦がピークともいえる時代でした。

そして、急速に消費社会になったアメリカの影では、非白人は少数民族などはマイノリティとして貧窮の中で暮らし続けていました。特に南部では選挙権差別は続いていたため、アフリカ系アメリカ人の小作人たちは投票しようとしても、白人の農民に追い払われてしまう始末でした。

南部でのアフリカ系アメリカ人

アメリカの南部の有権者登録委員会は、選挙の投票資格があるアフリカ系アメリカ人の数を制限していました。

申請に来るアフリカ系アメリカ人には、白人より識字力の高い正確さを要求していました。白人の申請者は自分の車の中や家でも登録が可能でしたが、黒人の申請者は後回しにしていました。そして裁判所の中でも黒人には別の登録場所を用意して、登録書の記入についても白人申請者には援助の手を差し伸べていて、黒人の登録状況については何も告知しようとはしませんでした。

こうした差別に抵抗した南部の黒人、特に小作人は選挙人登録から締め出されていきました。田園部の黒人は常に雇用主から解雇するぞという脅しの中で生活していました。白人の中で「市民評議会」を自称する人たちは抵抗する者に経済制裁を行う政策を採り、あるいはクー・クラックス・クラン(KKK)のような白人自警団組織は南部中で歯止めの掛からない統治を実行する場合が多くあったため、アフリカ系アメリカ人へのリンチはごく日常的に行われていて、告発されることなど滅多になり状態でした。

この頃は司法きちんと機能していない状態だったため、いくつかの州の全ての白人の判事たちは、アフリカ系アメリカ人をリンチで殺害した人たちを無罪放免にしているようなことがまかり通っていた時代です。

1950年代に入る前の1948年7月28日に、ハリー・トルーマン大統領によってアメリカ軍隊内での人種「隔離」を禁止するよう命ぜられていはいましたが、1950年に勃発した朝鮮戦争でも、黒人士官や黒人と白人の混合部隊の実現はなかったような時代です。

きっかとなった事件

公民権運動が草の根運動となって展開したキッカケとなるある出来事があります。【モントゴメリー・バス・ボイコット】と呼ばれるのがその出来事でした。

1955年12月1日にアラバマ州モントゴメリーで、黒人女性のローザ・パークスが公営バスの「白人専用及び優先座席」に座りました。黒人女性が白人専用席に座ったことに対して、白人の運転手のジェイムズ・ブレイクがローザ・パークスに白人客に席を譲るよう命じましたが、パークスがこの白人運転手の言葉に対して拒否しました。その結果パークスは「人種分離法」違反で警察官に逮捕されて投獄されます。その後。モンゴメリー市役所内の州簡易裁判所で罰金刑を宣告されるという事件です。

この出来事に対して、後にローザ・パークスが語っていたのは『ただ疲れていただけ。仕事帰りでとにかく疲れて座りたかった。』と述べています。そして『疲れていたこと』は仕事だけでなく、差別に対して屈服することに『疲れていた』とも後に自伝で語っています。

【モントゴメリー・バス・ボイコット】の後にローザ・パークスと夫は、このただバスの白人席に座っただけで、白人たちから嫌がらせを受け夫婦ともに仕事を失い、家には嫌がらせ(殺すという手紙や家に張り紙など)を執拗に受けて、この1957年にはアラバマからデトロイト氏へ引越しています。

事件の詳しい内容

1955年12月1日18時ごろのことです。その当時ローザは42歳で、百貨店での仕事を終えて帰宅するため市営バスに乗車しました。

市営バスの中は、白人席と黒人席に分けられていて、白人が乗車していない時は黒人も中間の席に座ってよいことになっていました。帰宅時というラッシュの時間だったため、黒人席はすでに一杯でした。

ローザが中間席に座っていると、白人も次第に乗車してくる人たちが増えてきて、白人もバスに立って乗車するしかない状態になってきました。このため、バスの運転手ジェイムズ・ブレイクは中間席に座っている黒人に立つように命じます。

中間席に座っていた黒人の4名中の3名は席を立ち白人のために席を空けました。でもローザは立ちませんでした。運転手ブレイクがローザのところにやって来て「なぜ立たないのか」と詰問して白人に席を譲るように求めましたが、それでもローザは「立つ必要は感じません」と答えて起立を拒否しました。

するとブレイクは『よろしい。立たないんなら警察を呼んで逮捕させるぞ』と言い、ローザは『どうぞ、そうなさい』と答えたと後に語っています。このときに同じバスに乗り合わせていた乗客によると、ローザはこの時に終始、静かで威厳に満ちそして毅然とした態度を貫いていたといいます。

運転手は警察に通報して、その場でローザは逮捕されますが、その時に「どうして私が連行されるのか?」と警察官に尋ねますが、「知るもんか。でも法は法だからな。お前は逮捕されたんだ」と返答したそうです。

ローザが逮捕された報せが伝わると、モンゴメリーのデクスター街バプテスト教会で牧師に着任したばかりで当時26歳だったマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師やラルフ・アバーナシー牧師たちが抗議運動に立ち上がることになりました。

以前にも同じように黒人が逮捕されていたことはありましたが、逮捕されていた人たちは素行が悪かった人たちも多かったため、抗議運動をしても運動として盛り上がることはありませんでしたが、白人に席を譲ることを拒否したローザはきちんと仕事を持っている職業婦人でもあり、全米黒人地位向上協会(NAACP)で書記という立場だったということもあって、関係者がすばやく動いたといわれています。

この1950年代は、白人たちは大きな自家用車を持っていましたが、貧しい黒人にとって交通手段はバスしかなくバスは必須の交通機関でした。実際にバスを利用していたのは黒人たちで実に75%以上を占めていました。ルーサー・キング牧師達が呼びかけた【バス・ボイコット】とは、バスを利用しないことです。そのため、この運動に賛同した黒人たちは今まで利用していたバスを使わずに、黒人の車に同乗したりどこへ行くにも歩いて徹底的にバスに乗らないこのバス・ボイコットを続けていきます。やがてこの抗議運動は、黒人だけではなく運動の意義に共感する他の有色人種、さらには白人たちもボイコットに参加することになります。

バス路線を運営するモンゴメリー市は、75%の割合を占める黒人たちがバスを利用しないことで、経済的に大きな打撃を受けることになりました。後にこの運動は「モントゴメリー・バス・ボイコット」と呼ばれることになりました。

バス・ボイコット1年にわたります。そしてこの運動が全米に大きな反響を呼ぶことになり翌年の1956年に、合衆国最高裁判所が「バス車内における人種分離(=白人専用及び優先座席)」を違憲とする判決を出して、アラバマ州をはじめとする南部の他の州各地で黒人の反人種差別運動が盛り上がりを見せるようになりました。

ボイコット運動が終わったのは、最高裁がバス車内の人種分離の条例は違憲判決をだした翌日にバスボイコット運動は収束しましえたが、1年以上となる381日間に渡るバス・ボイコット運動となりこのボイコット運動があったからこそ、公共交通機関での人種差別は禁止されることになりました。